このブログでは、ガンプラのことしか載せないつもりでしたが、たまにはこんなこと書くのもいいかなって。
「ガンダム」の作品シリーズでは、世界が平和になった場合、「何らかの統一意思のもとで世界が一つになる」というケースが多いです。
例えば「W」。
「完全平和主義」のもとで、世界が武器を手放し、平和になる、という、ちょっとしたメルヘンで幕を閉じます。
ですが、これは正しい平和なのだろうか、と、最近考えるようになりました。
とある女傑の言葉を紹介します。
ドイツの社会主義革命家、ローザ・ルクセンブルクの言葉です。
断っておきますが、僕は社会主義者でも危険思想の持ち主でもありません。ただ、彼女のこの一文が、前述の課題に関係してくるのです。その言葉というのが、
自由とは、常に思想を異にするもののための自由である
という言葉です。
ローザ・ルクセンブルクは、社会主義革命家でありながら、レーニン主義を否定していました。それは、レーニンの主導する社会主義が、他の思想を弾圧するものだったからです。
思想の自由は、日本でこそ普通に認められていますが、ソ連では認められず、中国でも、今なお自由主義思想への弾圧は行われています。
では、この社会主義、共産主義での思想統一社会が平和かと言えば、そんなことないですよね。
「思想犯」の解放運動。
様々な問題が浮き彫りになっています。歴史の授業でも、「天安門事件」くらいは触りましたよね。
ここで最初に立ち戻ります。
「完全平和主義で統一された世界は、本当に平和なのか」
おそらく、最初のうちは、やってきた平和に人々は満足するでしょう。
ですが、それに反対する「危険思想」は、やがて生まれると思います。
議会の権力闘争を、完全に抑えることは不可能ですし、異なる政治思考から、テロに走るものも現れるでしょう。
それらすべてを、「完全平和主義こそ至高」として取り締まり、「危険思想」を排除すれば、それは中ロが行っている言論封鎖と変わりありません。
果たして、このいびつな形は「平和」なのか?
今、現実の世界で、言論統制は行われています。
真に自由と平和を成し遂げるのであれば、これは「完全平和主義こそ悪」というジレンマにも陥りかねません。
自由とは誰がための自由なのか。
強力な統一意思のもとに統率される世界は、果たして本当に理想なのか。
その統一意思に対し、反発するものを取り締まることは正しいのか。
ローザ・ルクセンブルクは、こんな世界を予想して、この言葉を残したのかもしれません。
すべての人の、思想の自由が認められ、なおかつ統率の取れた世界。
矛盾しているかもしれませんが、これこそ、ローザ・ルクセンブルクの求めた理想郷なのでしょう。
僕らは、これに応えることができるのか?
彼女が言葉とともに残した「宿題」は、おそらく今の世の中では達成できない、超難問です。
いずれ、解答が出るでしょう。
その答えが、「正しい」ことを、祈らずにはおれません。
自由とは、常に思想を異にするもののための自由である
彼女の求める革命社会は、まだはるか遠い…。